無の表現
1998-6-20
素描における「無」とは何か?
デッサンやクロッキーは「無」になっているかどうかで出来不出来が決まります。
素描における「無」とは何か。出来うるかぎりやさしく解説してみよう。
「白い本」というのが本屋の店頭で売っていたことがありました。
これは本の形をしてますが、文字通り、写真や文字が印刷されてなく、どのページも真っ白です。
この白紙のページに美人の写真が印刷されていればどうでしょうか。
印刷されている紙のことは忘れて、きっとその写真に見入ることでしょう。
紙は歴然と存在しているのですが、紙には意識が向いていないことを意味しています。
この何でもない日常生活の経験が絵画にとって大きな意味を持っています。
新品の真っ白なキャンバスがイーゼルの上に架かっていたとします。
これを見た人は別に何も感じずキャンバスがおいているぐらいにしか見ていません。
ところが、このキャンバスに木炭で何かが描かれていればどうでしょうか。
例えば、人の顔とか林檎とか花など描かれているとすれば、描かれているものは「何だろうか」と気にかかります。
描かれたデッサンに関心が向かい、これに意識が集中します。
この描くという行為で、人はキャンバスがデッサンに変身していることに気がつかない。
キャンバスは以前と同じ様に存在しているのですが、キャンバスがあるという意識は働いていないのです。
この時点でもうキャンバスは「無」となっています。
つまり「無」とは何もないということでなく確実に存在していながら、その存在が意識外となっていることです。
「無」になる線
これで、何かを描くこと、つまりデッサンする行為によってスケッチブックやキャンバスは意識外となることがわかりました。
次にデッサンの線について考えてみましょう。
線は、絵画の要素の中でも重要です。
線が生きているか否かで絵の出来不出来が決まるといっても過言ではありません。
それほど重要かつ決定的な意味をもつ線ですが、絵においてはこれらの線は「無」とならなければなりません。
線はしっかり描くのですが、その線は見る人にとって意識外となるということです。
デッサン力がまだ幼稚な人の裸婦クロッキーなどを見ると、描かれた線だけが目に飛び込んできて、美しい裸婦が見えてこない。
手や 脚を描いているつもりでもただの線の場合、棒のように見えてしまう。
これは、線で裸婦を表しているのではなく、ただの線となっているからです。
線で裸婦を表現していれば、線は意識から消え美しい裸婦が現われるのです。
これは線が存在していながら、ただの線として存在しているのではなく、裸婦に変身し、線 は「無」になったことを示しています。
「無」となるために線は輪郭であり、量であり、空間であることが要求されます。
スケッチブックやキャンバスに描かれた線がただの線のように見えれば、作品とはいえません。
つまり、線が物や空間に変換されてはじめて素描となります。
美の原理はこの変換の落差が大きいほど美の力も大きいものです。
が、美に変換されなかった場合、大きなマイナス要因となります。
映画はスクリーンが「無」になることによってスクリーンは生きてきます。
もしスクリーンが自己主張して、赤や黒に変身されたり、模様が描かれたりしていればどうでしょうか。
映像がはっきりしなくなることは容易に想像できることです。
高い入場料を払ってスクリーンを見に行っているわけではありません。
映写機から投影されるイメージ(映像)に金を支払っているのです。
スクリーンは真っ白な布ですからカラーでも白黒映画でも映像を写すことが出来るのです。
この当たり前のことがたいへん重要な意味を持っています。
スクリーンがなければ映画は成り立ちません。
これは言うまでもないことですが、スクリーンの存在が「無」(真っ白)となっていることが要求されています。
映画館に入り、やがて上演のベルと共に幕が開き白いスクリーンが現われます。
だれしもスクリーンに眼をやりますが、あまり意識していないでしょう。
しかし、映写機が廻り出すとスクリーンが在ることは忘れ、映像にくぎ付けになります。
人々は映画を見ている間はスクリーンを見続けているのですが、スクリーン という物には関心が向かない。
と言うより意識されていません。
これは存在が無と成ったことを意味します。
デッサンやクロッキーはこのように描かれた線が無となってはじめて生きてくるのです。線が別のものに変身して絵画(芸術)が成り立っています。